《自分のことで悩んでいる人は皆、被災地に来たらいい。》
熊本・阿蘇でボランティアを始めて約100日。
先日、本震も経験した長期メンバーが1人帰りました。
この「100日」という単位は、被災者の方にとっても本当に重みのある数字ですが、
僕たちボランティアにとっても、大きな重みを持つ数字でした。
拠点をお貸しいただいて、日々何十人もの共同生活。
そのうち半分が短期間で入れ替わり、10人ほどの長期のメンバーは約100日間共同生活でした。
朝は8時に起きて、みんなで掃除。
そのあとにボランティアの現場へ。
ご飯はみんなで手分けして作って、
夜は語り合ったりミーティングをしたり。
そして10畳くらいの部屋に、10人くらいが寝袋や銀マットを敷いて寝る。
そしてまた朝の作業へ。その繰り返し。
日々変わる人たちとの共同生活。
そして何よりもココが「被災地」という現状。
今でこそ無いですが、最初は余震も毎日くるくらいでした。
被災地で、被災者の人に触れ、様々な背景を知っていく。
田植えができなくなった人。
家が全壊して無くなってしまった人。
人が来ないから従業員を解雇しなければいけない人。
様々な背景を知り、それぞれが考える。
何が正しいのか、
何が1番良いのか、
何が本当の支援なのか、
全員が善意で動くからこそ、それぞれの正義がぶつかることもありました。
そんなボランティア同士だからこそ、生まれる絆。
それは下の写真が物語っています。
僕の好きな作家さんの小説で、こんなやりとりがあります。
『あんなにたくさんの人間がいて、人間のことで悩んでいる人間は、たぶん1人もいない。』「馬鹿じゃねえの。みんな悩みばっかだって。」『自分のことで悩んでいるだけだ。人間のことで悩んではいない。』
良い大人が自分の仕事を止めてまで、ボランティアにくる。
良い大人が自分のせっかくの休日を返上してまで、ボランティアにくる。
仕事を続けていたら、その分お金が入っていろんなことができるはずなのに。
休日にしていたら、ゆっくり休んだり、好きなことができるはずなのに。
ここ熊本では、自分のことを放り投げて、ただただ目の前の被災者のために動く人がいます。
もしかすると、自分のことを考える余裕がないだけなのかもしれない。
「人の為と言いつつ、自分のためにやってるただの偽善じゃん。」
ボランティアや誰かの為に動くことが、
やれ偽善だの、やれ自分のためだの、ココにはそんな議論すら介入する余地もない。
ココに在るのは、
”目の前の人の役に立っている”という事実と、「有難う」という言葉だけ。
自分のことなんかで悩む暇がないくらい、
被災者のため、被災地のため、熊本のため、
ただ目の前の人の為に、自分が、皆んなが悩む。
『自分のことで悩んでいる人は、みんな被災地に来たらいい。』